マリー・フォン・プロイセン(ドイツ語: Marie von Preußen, 1855年9月14日 - 1888年6月20日)はプロイセン王女。プロイセン王子フリードリヒ・カールの長女で、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の大姪である。最初にオランダ王子ヘンドリック妃、死別後にザクセン=アルテンブルク公子アルベルト妃となった。
生涯
マリーは1855年9月14日、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の三男カールの長男で陸軍元帥のフリードリヒ・カールと、その妃のアンハルト=デッサウ公女マリア・アンナ夫妻の第1子としてポツダムの大理石宮殿で生まれた。全名はマリー・エリーザベト・ルイーゼ・フレデリカ(Marie Elisabeth Louise Frederika)。母マリア・アンナはアンハルト公レオポルト4世とプロイセン王女フリーデリケ夫妻の末娘である。
1878年8月24日、マリーはオランダ王子ヘンドリック・ファン・オラニエ=ナッサウとポツダムの新宮殿で結婚した。夫となるヘンドリックはマリーより35歳も年上で、しかも先妻に先立たれていた男やもめだった。ヘンドリックはオランダ王ウィレム2世と王妃アナ・パウローナ夫妻の三男で、オランダ軍で海軍大将を務め1850年からはルクセンブルク総督の地位にあった。この縁談は、ウィレム3世の2人の息子が両方結婚しないため、将来的なオラニエ=ナッサウ家の断絶を回避する手段として手配された。しかしマリーとヘンドリックの間に子どもは生まれず、結婚からわずか5か月後の1879年1月にヘンドリックははしかに罹って亡くなった。
1883年、マリーは妹ルイーゼ・マルガレーテの一人息子のイギリス王子アーサー・オブ・コノートの洗礼の際、彼の代母となった。洗礼式はイギリスのウィンザー城のプライベートチャペルで行われた。
最初の夫との死別から6年後の1885年5月6日、ベルリンで、ザクセン=アルテンブルク公子アルベルトと再婚した。夫はザクセン=アルテンブルク公フリードリヒの七男エドゥアルトが2人目の妃のロイス=グライツ侯女ルイーゼ(ロイス=グライツ侯ハインリヒ19世の娘)との間にもうけた三男であり、プロイセン軍に士官していた。この2度目の結婚は仲睦まじいものになったと言われており、娘が2人生まれた。
マリーは1888年6月20日、ドレスデンのアルプレヒツベルク城で産褥熱により死去し、ザクセン=アルテンブルク家の墓所に葬られた。
夫のアルベルトは1891年にレンプリン(現在のメクレンブルク=フォアポンメルン州デミン郡)にてメクレンブルク=シュトレーリッツ大公フリードリヒ・ヴィルヘルムの姪でロシア大公ミハイル・パヴロヴィチの孫であるエレナ・ゲオルギエヴナ・メクレンブルク=ストレリツカヤと再婚した。
子女
2人目の夫であるアルベルト・フォン・ザクセン=アルテンブルクとの間に2女をもうけた。
- オルガ・エリーザベト(1886年 - 1955年) - ピュックラー=ブルクハウス伯爵カール・フリードリヒ夫人
- マリー(1888年 - 1947年) - ロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ35世妃
脚注
注釈
出典
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、マリー・フォン・プロイセン (1855-1888)に関するカテゴリがあります。




