狩野 宗秀(かのう そうしゅう、 天文20年(1551年) - 慶長6年11月頃(1601年))は、安土桃山時代の狩野派の絵師。狩野松栄の次男で、狩野永徳の弟。名は元秀、秀(季)信。宗秀(周)は号。
経歴
元亀2年(1572年)21歳の時、永徳と共に豊後国の大友宗麟に招かれ障壁画を描く(現存せず)。天正4年(1576年)安土城障壁画制作では、永徳から家屋敷を預けられ、その留守を守った。これは、万が一障壁画制作に失敗し織田信長から不興を買った場合、咎めが狩野派全体に及ぶのを危惧しての保険と見られる。天正10年(1582年)羽柴秀吉が、姫路城殿舎の彩色のために、宗秀を播磨国に招いている(「那須家文書」)。天正18年(1590年)、天正度京都御所造営では永徳を補佐し障壁画製作に参加する。文禄3年(1594年)制作の「遊行上人絵」に「狩野法眼」とあり、この頃には法眼に叙されていたことが分かる。慶長4年(1599年)、桂宮家新御殿造営にあたり甥の光信を補佐し障壁画制作に参加する。慶長6年(1601年)11月頃、光信に息子・甚之丞の後見を依頼しつつ亡くなった。
『本朝画史』では、「画法を専ら兄永徳に学び、よく規矩を守ったが、父兄には及ばなかった」と評している。また、同書収録の「本朝画印」では、「筆法専ら永徳に似て荒らし」とその画風を記している。
画系に、先述の実子で父と同じく「元秀」を名乗った真設甚之丞、また元和から寛政頃の作品が残る狩野重信も門人とされる。
作品
ギャラリー
親族
- 父 狩野松栄(1519年-1592年)。
- 兄 狩野永徳(1543年-1590年)。
- 弟 狩野長信(1577年-1654年)。
- 甥 狩野光信(1565年-1608年)、狩野孝信(1571年-1618年)。
脚注
参考文献
- 土居次義 「豊国神社の歌仙扁額について ─狩野宗秀研究資料」「狩野宗秀に関する一考察 ─日禎上人像を中心として」、『近世日本絵画の研究』所収、美術出版社、1970年
- 『週刊朝日百科 世界の美術119 安土桃山時代の絵画』 朝日新聞社、1980年
- 町田右 「狩野宗秀筆四季花鳥図屏風における構図の対称性について 」『美術史学』第10号、東北大学文学部美学美術史研究室、1988年3月、pp.25-37
- 『日本人名大辞典』 講談社、2001年 ISBN 978-4-0621-0800-3
- 並木誠士 「狩野宗秀「遺言状」をめぐる考察」、古画備考研究会編 『原本『古画備考』のネットワーク』 思文閣出版、2013年2月、ISBN 978-4-7842-1674-1
- 展覧会図録
- 京都国立博物館編集 『特別展覧会 狩野永徳』 2007年
- 最上義光歴史館編集 『特別展 重要文化財 光明寺本 遊行上人絵 ─最上義光 没後四百年記念 全巻公開─』 山形市発行、2013年9月
- 京都国立博物館 毎日新聞社編集 『特別展覧会 桃山時代の狩野派─永徳の後継者たち─』 毎日新聞社 NHK京都放送局 NHKプラネット近畿、2015年4月7日
![狩野派と土佐派 展覧会 アイエム[インターネットミュージアム]](https://www.museum.or.jp/storage/article_objects/2021/02/05/1b6e591b58c8.jpg)



